私の生い立ち

2008年9月13日 (土)

悔しいんだよ~

 今日、9月13日は私の姉の誕生日。本来なら47歳の誕生日かな。

 7年前の今日は乳がんとの闘いに姉は挑んでいました。仕事の帰りに病院に寄って「誕生日おめでとう」と言った記憶があります。

 それから5日後の9月18日にはあの世に逝ってしまうなんて。

 今でも悔しくて悔しくてたまりません。

 何とかならないものかと思ったけど、残酷でしたね。当時姉には小学校1年と3年のお子様もいたけど、私は実の弟。こんな出来の悪い弟でも良く面倒を見てくれました。

 もうこれ以上書けません。あまりにも私が無能すぎて。あの世で姉が叱咤激励をしてくれてはいると思うけど、「甘えているなよ」と言ってくれているような気がします。

 とにかくあっちの世界に行っても私は弟だから。見守ってね!

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2008年4月21日 (月)

酒乱

 私の今は亡き父親はお酒が好きでした。本当に好きでした。飲むときは浴びるくらい飲みました。仕事が休みのときは(そもそも飲食業だったけど)、朝から飲んでいました。でも私が小学校低学年ぐらいまでは仕事中に飲むことはありませんでした。

 でも、飲むと暴れだすんです。もう手のつけられないくらいに。母や姉2人を含めた兄弟に難癖つけて殴る蹴る騒ぐ、もうどうしようもありません。思い出すのも辛いけど過去のこととして吐き出しちゃいます。

 いつも母は私たち子供をかばって殴られていました。本当に酷いものです。仕事が終わって酒を晩酌に飲んですぐ寝てくれればいいんだけど、少し度が過ぎるともうたまりません。

 また、どこかで飲んで自宅に帰ってくると決まって暴れだすので、帰って来た様子がわかると私たち兄弟3人は急いで寝たフリをするか、勉強しているフリをしたりしてじっと嵐が通り過ぎるのを待っていました。それでも難癖をつけられて殴られたりしたことは良くあります。寝ているのを起こされて殴られたこともあります。私は末っ子なのでまだ少ないほうだったけど2人の姉たちは私以上に殴られているでしょう。

 母が飲み屋の人に頼んで父が帰ったときは自宅に電話をしてもらうように頼んだこともあるくらいです。電話のベルだけ鳴らしてもらうのです。そのベルが鳴ると「警戒警報」と言ってかしこまった格好をして待ちました。それでも父は外面は良かったようだから始末が悪いんです。

 だから父が酒を飲むといつも「ドキドキ」心拍数が増してもう大変だったんです。何も父の前ではできませんでした。すぐに怒鳴られるから。これが365日続いていたようなものです。母は本当に苦労したでしょう。親戚の家に逃げたことも何回もありました。

 仕事中は飲まなくて、それでいて案外気配りのできる父だったのに・・・・。それが私が小学校高学年になる頃から父はお客さんに一杯酒を勧められて注がれて飲んでしまって、アルコール中毒状態になりました。その頃からすい臓を痛めたり、糖尿病になったり、肝臓を壊したり入退院の繰り返しになります。もう仕事中でも何でも酒を飲まないといられませんでした。出前の途中で缶ビールを買って飲んだり、お客さんに出す酒を隠れて飲んだり・・・・。

 そんな父もその積み重ねでだんだんと弱っていき、私が24歳の時、54歳で亡くなりました。やっぱり肝硬変で。その1年前には胃がんの手術もやったしね。もう病気のデパートみたいなもので手は付けられませんでした。

 こんな環境で育ったから、逆に私は周りには敏感になったのだと思います。また職場で怒鳴られるのも大嫌い。もう怒鳴られるのはコリゴリなんです。

 私は就職するまでは一滴も酒は飲みませんでした。だけど就職してからはお酒を飲んでいます。お酒は好きです。だけどお酒で迷惑を掛けたくないというのは人一倍強いつもりです。

 みんなで楽しく飲んで家庭では迷惑を掛けないお酒、それが私のモットーです。

 こんな話を読んでくださってありがとう。こんなことをあまり書きたくないんだけど、今の私の病気とは切っても切れない関係があると思うので思い切って書かせていただきました。

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2008年3月17日 (月)

苦手だった英語

 英語を学校で習い始めるのは中学校からですね。今は小学校高学年でも習うのかな?

 私は地元の某有名中学に受験して合格してしまったことは前にも書いたことがあります。中学に入学するまでは英語なんて勉強したことはありませんでした。もともと家は貧乏だったし、受験科目であった国語と算数ぐらいしか徹底的に勉強しませんでしたねえ。

 ところが中学に入学すると英語の授業が始まります。同級生達は教授や医師や議員や有名企業の幹部のご子息ご令嬢ばかり。みんな英才教育を受けた生徒ばかりだったんですね。

 そして英語の授業が始まります。先生に指されて英語の教科書を読まされたり、英語で解答させられたりしますね、英語の授業って。私は極度に緊張してうまく発音できませんでした。それからしばらく医者の息子であるM君にバカにされます。私のうまく発音できなかったのを真似されてからかわれたんです。とても嫌でした。英語の授業が嫌で嫌でたまりませんでした。嫌なもの、得意科目になるはずもありませんね。

 どうしても緊張してしまうと声って震えちゃうんですよね。人前で緊張してしまうのは小学校のころからだったけどこれって「社会不安障害」だったのかなあ。でもそのせいにしたくはありません。もっと家で何回も音読するとか努力をすれば良かったのかもしれないですね。もともとが怠け性だったからね。

 今思うと英語って外国へ行くとどこでもある程度は通用するし、もっと頑張っておけば良かったなあと思います。その割には何回も海外旅行に行ったりしているけどね。それなりに壊れた英語でも通じている・・・・。

 私は常々負け惜しみじゃないけど、文法云々より英語を聞いて理解して英語で喋れる、その会話力の方が大事じゃないかという気がしています。そうすれば後から文法はついてくると思うんですよね。勿論読み書きも大事だとは思うけど・・・。

 こんなことがあって、中学校のころから自分に自信をなくしていったのでした・・・・。

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2008年2月27日 (水)

頑張ったヤツ

 受験シーズン真っ盛りですね。

受験と言えば思い出すことがあります。ある同級生のことです。それは高校受験の時のことです。

その同級生とは中学3年の時同じクラスでした。結構話もしたし、仲は悪くなかったですね。私のころの受験は公立と私立を併願するのが当たり前でした。私が通っていた中学は某大学の附属中学でレベルが高く、殆ど全員と言っていいくらい普通高校へ進学するんです。

 そこで私は市内2番目と言われる公立高校と私立高校を滑り止めに受験しました。両方合格できましたけどね。だけど、その同級生は公立高校単願で市内3番目と言われる高校を受験しました。珍しくね。私立高校は学費が何かとかかり大変です。その同級生は家庭環境が厳しかったんでしょう。3番目の公立高校を受験したと言うのは、安全策を考えてのことだったと思います。

 しかし、同級生はその高校に何と不合格だったんです。単願だったから行く学校はありません。高校受験浪人となるんです。中学の卒業式の時だったかな、涙ながらにみんなに訴えたのを思い出します。「家庭環境が併願を許さなかったんだ」とね。

 それから1年が経ちました。私は高校2年生です。新入生が入学してきます。何とその同級生がいるではありませんか。1年浪人して、高校のレベルを1つ上げての再挑戦が実ったのですね。不合格だった高校に再挑戦するのが普通かなと思うけど、その同級生はすごく頑張ったんですね。拍手喝采です。大きな高校だったのでそれ程会うことはなかったけど、たまに会ったときは「元気かい?」ぐらい声をかけてたと思います。同じ歳なのに学年が違う、何か複雑だったけどね。

 さらに1年が過ぎて、その同級生は高校2年生になりました。私は3年です。何とその同級生は「生徒会長」になってしまったんです。もう「スゴイ」としか言いようがありません。今でもその同級生を尊敬しています。これだけ頑張ったヤツって言うのは私は他には知らないくらいです。そういう人間に限って「頑張った」とは言わないんですね。多分プライドはズタズタにされて相当苦しんだだろうに、ここまで頑張っちゃうとは・・・・。

 人間って遠回りしても行き着くところへ必ず行くんだなと。くよくよ迷っているより前に進むことを考えていれば必ず結果は着いてくるとね。

 受験シーズンということでふとそんなことを思い出してしまいました。

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2008年2月24日 (日)

新卒で就職した頃

 ある方のブログで就職した頃のことを書いてあるのを拝見しました。そこで自分も高校を卒業して前の職場に就職したときのことを思い出してみました。もうだいぶ昔のことになるけどね。

 私はそもそも親が食堂を経営していたことからサラリーマンの様子なんて全然分かりませんでした。だから余計にも不安だった覚えがあります。どんな雰囲気なんだろうか・・・・。

 新人で配属された課は15人程度の課でした。自分の机は5人で一つの「島」になっていました。私は当然新人だから一番端の席ですね。同じ課には女性が3人いました。まずお茶くみ。そのころは自分は朝昼のお茶くみとか夕方の茶碗洗いは当然女性がやってくれると思っていました。いつも女性職員がやってくれたけどね・・・。でも本来は一番下っ端の私がやらなければいけなかったんです。自分から手を出してやらなければいけなかったんですね。「私がやります」とね。それが言い出せなかった。それは今でも反省しています。

 恐かったのが「電話」。仕事も何も分からない中で、電話には殆ど出ませんでした。でもその島で私一人だけになってしまって、そこで電話が掛かってくると・・・、ドキドキしました。頭が真っ白になってしまいました。でも出ないわけにはいきません。また上司が戻ってきたら電話をかけてもらうことにしましたね。ドキドキしながら。

 他のフロアに仕事を頼まれて行く事もありますね。でも他のフロアのドアがなかなか開けられません。緊張しちゃって。入るとジロって見られるような気がしたし、20歳も30歳も年上の先輩たちばかりですごく恐く感じちゃったんですね。言わなければならないこともドキドキ緊張したし、言った相手に何か言葉を返されるともう頭が真っ白。だから他のフロアに行くのは大嫌いでした。自分の机だけが自分の居場所のようになっていました。

 多分こんな新人使えないと思ったでしょうね。とにかく初めてのところは苦手なんです。慣れるまで時間が掛かるんです。そんな私がよく転職したものだと思います。昨年の4月はそれと全く同じ状況だったんじゃないかと思います。人に分からないことは聞けと言われるけど、その聞くのが苦手。積極性がなく引っ込み思案。その職場に適応するのに時間が掛かるんですね。ましてや転職先の仕事は現場の仕事。自分の机なんてないから居場所もありません。そこで慣れる前にうつ病で休むことになってしまった・・・・・。

 4月に復職するつもりではいるけど、また同じことになるのかな。でも開き直って「なるようになる」精神で飛び込んでいきたいと思っています。人なんて性格はマチマチなんだからね!緊張してもいい、仕事ができなくてもいい。分からないことを聞くことができない人間でもいい。私はそういう人間なんだから。そんな私でも今の職場で使い道はある。そう信じて。

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2008年2月17日 (日)

ネコのこと

 私がブログを始めてから皆様のブログを訪問させていただくようになり、いろいろ読ませてもらっていると、犬や猫が好きな方が多いなあと感じます。確かに飼っているとかわいいし癒されますよね。そのお気持ちは充分に分かります。

 我が家は犬は私が幼かったころ一瞬だけ飼ったことがありました。猫は今まで飼ったことはありません。

 他に飼ったことがあるペットと言えば、小鳥と金魚くらいかな。小鳥は私が小学生の時いろいろと飼っていました。セキセイインコに文鳥にジュウシマツ、これらを私が世話をしていました。それはというもの、かわいかったですね。

 その小鳥たち、ある夜に全滅してしまったのです。犯人はと言うと何と「ネコ」。我が家は10年くらい前までは食堂を親が経営していました。自宅も店舗兼住宅です。当然食堂だから生ゴミなんかもたくさん出ますよね。そのにおいに引き付けられるのかよく我が家にネコが来ていたのです。我が家の隣りもおすし屋さんだからね。小鳥が無残にも全滅した時は悲しかったですね。ショックでした。それ以降、生き物は飼わないことにしたんです。死んじゃうとかわいそうだからね。

 我が家がネコの通り道になっていた感じでした。盛りの時期になると我が家の屋根の上で「ニャーニャー」の大合唱。ガタガタネコの足音はするし寝られたものではありません。こんなこともありました。ネコってホンの小さな隙間からでも侵入できるんですよね。夏などは窓を少し開けて寝ることも多かったのですが・・・、私が夜中に目覚めてふと横を見るとネコがいるではありませんか。これは気味が悪かったですね。

 まだあります。2階にある物干しのベランダから「ニャーニャー」とか細い泣き声が聞こえてきます。よくよく探してみたら・・・・なんと我が家のベランダで子どもを産んで育てているではありませんか。時々我が家にも侵入してきて親ネコが子ネコを連れて歩いているんです。こんなネコ、家賃を払ってもらわないと困りますねえ。

 ネコって放し飼いだから外で何をしているのか分からないんですね。帰巣本能は強いので、それで飼い主のところには戻ってくるのだろうけど・・・。だからネコには好印象は持っていません。最近は食堂をやめちゃったし、ネコを見かけなくなりました。

 でもネコって飼うとかわいいんでしょうね。外で何をしているか、飼い主には責任を持って飼ってもらいたいと思ったものでした。

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2008年1月26日 (土)

どうしても言えなかった

 たまにはこんな話でも・・・・・。

 私は高校時代には部活は生物部に入っていました。生物部と言っても帰宅部ではありませんでしたよ。しっかり研究して研究発表会には発表してって文化部のほうでは「まじめに」活動している方でした。私はもう1人の同級生と「ツルナシインゲン」の研究を行っていました。どんな研究かってことを書くと長くなるからここでは省略してまた別の機会にでも。

 その生物部でいつも仲が良かった私を含めて5人の同級生がいました。部の顧問の先生も気さくで話しやすくて、放課後になると研究もしていたけど自然にその5人が集まるようになってきました。そのなかには女子生徒も2人いて、いつも和気あいあいと顧問の先生も含めておしゃべりタイムになっていました。勉強のことや学校のことやその他いろいろなことを・・・・。高校生活は決して面白くはなかったんだけど、この時だけは楽しくて早く放課後が来ないかなと思ったものです。女子生徒はSさんとYさん。どちらも性格が良くて、朗らかで、すばらしい生徒でした。1年生の時同じクラスだったしね。

 私は特にSさんに好意を持っていました。笑顔が可愛くて優しくて・・・・。でも他の3人と同じように遊んでいたけどね。高校は自転車通学で、そのSさんは家が同じ方向なので一緒に帰ったことも何回かあります。でも2人で帰ると多分私は緊張していたんでしょうね。みんなと集まっている時より口数が少なかったのを覚えています。そんなまたとないチャンスに一言「好きです」とでも言えればまた人生も変わっていただろうに・・・・今でも悔やんでいます。と言うか自分に自信がなかったんでしょうね。どうしても言えませんでした。

 高校を卒業し、私を除く4人は大学へ進学していきました。私は家庭の事情もあり就職。みんながとても羨ましかったですね。卒業してからも暫くは年に1回程度その生物部の顧問だった先生の家に遊びに行ったりしていました。年に1回程度の集まりだけどとても楽しかったですね。多分私がSさんに好意を寄せていたこともSさんには分かっていたと思います。そんな時Sさんは「友達の付き合いをしようね」と言っていましたから。そうは言われてもいつもSさんのことはとても気になっていました。いつも頭から離れませんでした。どうしても自分から積極的になれない、突撃できないもどかしさがありました。せいぜい年賀状のやり取りくらい。情けないですね。成人式の時もそのSさんを探して遠巻きに晴れ着姿を見たりしていました。

 そのSさんは小学校の教諭になりました。それから何年かして「結婚しました」のはがきが来ました。相手の男性は見たことがあります。なんと高校時代の同級生ではないですか。ショックでした。その相手は高校の時は生物部ではなかったけどね。確か1年の時同じクラスの人だと思います。多分大学もSさんと同じ大学に行ってそんな仲になったんでしょうね。私はその相手の方とはあまり話をしたこともなかったし、本当に知っているだけでしたけど。

 でもそれから何年も経つけど、未だに年賀状のやり取りだけは続いています。そのSさんの写真を見るといつも複雑な思いをします。やっぱり自分の思いは今でも変わっていないんだなと。でも幸せそうな子供たちとの写真の年賀状を送ってくれると嬉しいものです。私も以前、二男がダウン症だと年賀状に書いて送ったら、毎年気にかけてくれて一言書き添えてくれます。今は特別支援学級の先生をしているそうです。これも何かの縁です。

 そのSさんを含めてその生物部の仲間4人、今は会うことはないけどとても良い友人です。私はそれだけでも幸せです。

 私も今は妻と子供たちがいます。そんな今を幸せに生きていければこんなに良いことはありませんね。

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2008年1月20日 (日)

ウルトラクイズ

 私は小さい頃からクイズ番組が好きでした。小学校の頃はどんなクイズ番組があったかなあ?昼間やってた「ベルトクイズQ&Q」なんか良く見ていましたねえ。「アップダウンクイズ」とか「クイズタイムショック」とか「クイズダービー」とか懐かしいですねえ。お堅いところでは「連想ゲーム」も良く見ていました。解答者が答える前にテレビにムキになって答えを言っていたよね。今でも「アタック25」なんかをたまに見ると、ついつい解答したくなっちゃいますね。

 いつごろからか、「アメリカ横断ウルトラクイズ」が年1回行われるようになりました。クイズに勝ち抜くと次の目的地に行くことができるというものです。敗退すると罰ゲーム、当時としてはかなり大掛かりなクイズ番組で、毎年楽しみにしていました。

 まだ海外旅行ブームの前で、なかなかアメリカでも行くのは費用が掛かっていた時代だから、高校を卒業したら是非このクイズに出場してアメリカに行ってみたいと思うようになってきました。

 そして社会人になって何年目かに、予選出場の申し込みをしてついにチャレンジすることになりました。進行は既に福留アナから福澤アナに変わっていて、ウルトラクイズが行われたのが最後の年だった時です。勝ち抜いて仕事を長期に休むことになったらどうしよう、そんなことは忘れての参加です(気持ちだけはアメリカに行く気になっていたからね)。

 当日は早朝に東京ドームに集合、いきなり東京ドーム前に第1問目の問題が掲げてあり、正解(〇か×)と思われる入り口から入場する仕組みです。私が選んだ答えの方が人数が少なくとても不安でした。テレビ録画のため、正解はなかなか発表されません。だんだん盛り上がったところで正解の発表。私はと言うと・・・何と正解でした。続いて第2問目の問題。まだ東京ドームのスタンドで〇×の仕切りがしてあります。第2問目は・・・・これも正解。そして第3問目、〇と×の解答者がどちらかがグラウンドに出てもう片方はスタンドに残ると言うものでした。まだグラウンドに出るには人数が多く残っているし、スタンドに残っていた方が正解の確率が高いと思って・・・・裏を考えちゃいけないですね。ここで脱落してしまいました。成田空港はおろか、東京ドームからも勝ち進むことはできませんでした。う~ん、残念。午前中で終わってしまったので、午後は一人江ノ島へ行ってブラブラして帰ってきたのを覚えています。そのおかげでヨーロッパとかアジアには海外旅行に行っているけど未だにアメリカには行ったことがありません。

 鉄道旅行趣味の人ってクイズ好きも多いような気がしますね。何か〇と×がはっきりしないと気がすまない性格なんでしょうね。鉄道旅行も一つ時刻表を見間違えれば列車に乗り継げなかったりしますよね。もうそれは×なんですね。必ず〇になるように計画を組み立てる、そんなところが似ているような気がします。

 このような性格ってやっぱり「こころの病気」になりやすいのかなあ。

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2007年12月11日 (火)

つまずきの第一歩・・・中学時代

 私は小学校は地元の小学校に普通に通いました。でもそろばんが得意だったせいもあり、常に「頭がいい」と見られていました。体育と図工は苦手だったけど。でも自分自身は優秀だとかそんなことはあまり思っていませんでした。やっぱり人前で話すことが極端に苦手だったこと、引っ込み思案なこと、文章を書くなど表現力がないことを小学生でありながら感じていました。

 そんな自分だったけど、中学入学のために「お受験」をすることになってしまいました。市内では有名な某国立大学の附属中学に。男子は3倍くらいの競争率です。個人経営の塾などに通ったりはしていたんだけど、この中学になぜか合格してしまいます。今思えばこれがつまづきの第一歩のような気がします。

 その中学に入るとそれまで通っていた小学校と雰囲気はガラリと変わり、周りは「お坊ちゃん、お穣ちゃん」ばかりで言葉遣いも違います。私の家は貧乏で日々の生活を維持するのがやっとだと言うのに、議員さんのご子息やテレビ局に親が勤めているお子様、医者や大学教授のお子様、そんな生徒ばかりです。

 でもその中でも私も次第に慣れていって同級生と仲良く3年間を過ごすことができました。やっぱり学校生活では中学時代が一番良かったかなと思っています。だけどみんなやっぱり英才教育を受けているのか頭が良すぎます。国語、数学、英語、理科、社会1教科50点満点の試験をやれば全部満点をとれば250点ですよね。その平均点が210点位なんですよ。210点取っても学年全体の半分くらいの順位。ある女子生徒なんかは249点で悔しくてワンワン泣いてた、そんな記憶があります。

 高校受験の時に私は平均点くらいだったのですが、市内トップの高校の受験は危ないと言われ、安全な2番目の高校の受験となったのでした。なにしろ当時は内申書の成績がものをいう時代で、通っていた中学と公立の中学では単純に内申書を比較できないから、試験一発勝負だったのです。家が貧乏なので滑り止めの私立高校には行きたくありません。どうしても安全策にいかねばならなかったのです。

 これは大人になってから親に聞いたのだけど、なぜ中学受験をさせたかと言うのは「地元の中学ではPTAの付き合いが商売やっててできないから・・・。」それを聞いたときにがっかりしました。それなら地元の中学に通って、「頭がいい」と思われていたほうが良かったのかも。地元の友人もいなくなってしまったしね。どちらにしても結果論だから今どうこう言っても仕方ありませんけどね。それからが人生の歯車が少しずつ合わなくなってしまいました。

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2007年11月19日 (月)

冷凍みかん

 いよいよ日本列島も冬将軍の到来ですね。寒くなってきました。

 寒くなると家のコタツでみかんを食べながらテレビを見る、そんな光景が良く出てきますね。

 わたしもみかんが大好きで、一つ食べるとついつい何個も食べてしまう、そんなことがよくあります。特に子どものころは父の実家がみかん農家で冬になると祖父が紙袋いっぱいにみかんを持ってきてくれたものです。

 みかんというと昨年女性3人グループのGTPが「冷凍みかん」の曲を発売し、ヒットしましたね。わが地元がみかん産地なので売れたのか、全国的に売れたのかは良く分かりませんが。

 子どものころ、家が飲食業だったため、めったに家族で遠出することはなかったんだけど、両親が車の免許を持っていなかったのでたま~に遠出する時は電車を使っていました。よく駅のキオスクでネット入りの冷凍みかんを買っていた記憶があります。私は兄弟3人だから両親とあわせて家族は5人。曲によると「♪冷凍みかんは4個いり」なんだけど、5個入っていたような・・・気もします。もっとも父はお酒を買って飲んでいたから4個入りだったかもしれないけどね。

 昨年Jリーグの試合を観戦に行って試合前にGTPのミニライブがありました。その日は特別に売店で冷凍みかんの販売をしていました。試合前に買ってしまうと家に着くまでには解けて水浸しになると思い買うのを諦めたんだけど、試合終了後にまだ販売していて思わず家へお土産に買ってしまいました。

 そして家族みんなで食べることに。「♪虫歯の歯にしみる~。おいしい~。」のとおりで、甘くて冷たくて本当に美味しかったです。子どものころ家族で出かけて冷凍みかんを食べたことを懐かしく思い出したものでした。

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2007年11月 8日 (木)

「腹巻き」はお財布

 秋も深まり朝晩もだいぶ冷えるようになってきました。

 ある方のブログに「腹巻き」の記事が掲載されていました。腹巻きと聞いたら子供のころを思い出し・・・。寝冷え防止には「腹巻き」がいいですね。でも私は腹巻きはしません。

 私が子供だったころ、今は亡き父親が夏でも冬でも腹巻きをしていました。「こんなに暑いのに何でだろ~」って感じでした。

 父親はギャンブルが好きでした。近くに公営ギャンブル場があり、お店の休み時間や休店日になるとその開催日には殆ど行っていました。ギャンブルだから儲かることもあれば大損をすることもあります。

 父がそこから帰ってくると・・・・・、顔色で大体の結果は子供の私でも分かりました。損をした時には機嫌が悪く、儲かると妙に素っ気無い・・・・。

 もちろん損をしたと思われるときは話しかけません。でも儲かったと思われるときには・・・・、こちらからご機嫌を伺います。「儲かったでしょ?」。最初は否定します。でも顔がにやけています。やっぱり嬉しさは隠し切れません。

 すると腹巻きからス~と「ハイ、小遣いだ!」と言って大盤振る舞い。札束が腹巻きにいっぱい入っていたのでした。その時だけは嬉しかったです。

 でも父がギャンブルをすることはイヤでした。損することのほうがはるかに多く、いつも生活がギリギリの状態で母が苦労するのを見てたから・・・・。

 腹巻きを札入れの変わりに使うなんて、今じゃちょっと世界が違いますね~。

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2007年11月 6日 (火)

食べ物屋の長男

 私は、小さなラーメン屋の長男として生まれました。

 皆さんは食べ物屋さんに生まれた子供さんをどう思うでしょうか?きっと「いつでも美味しいものが食べられる」とか「商売だから儲かる」なんてことを考えるでしょうね。

 でも、我が家の場合両親2人でラーメン屋を開いていて、それも店舗兼住宅。店が自分の住まいの一部となっていました。

 だから台所は店の調理場。3回の食事もその調理場で母親が作っていました。学校が休みの日の昼食は殆ど店のものを食べていました。

 自分が子供のころ、そのラーメン屋が好きだったかと言うと、そうではありません。

 その一番の理由・・・・日曜日に両親と遊んでもらえないことです。他の友達は日曜日に親にどこかに連れて行ってもらったりして楽しそうに見えたものです。

 二番目の理由・・・・商売は浮き沈みが激しいことです。儲かる時はそこそこだけど、客が来なければ収入もなく、自然に家族が暗くなり、生活も苦しくなってきます。

 大きくみればこの2つ。だから長男である私は店を継ぐことなんて全然考えませんでした。調理場に入って料理も作ることはしませんでした。だから食べ物屋の息子だったのにもかかわらず今料理は何も作ることはできません(ちょっと情けないけれど)。

 父親が20年ぐらい前に亡くなり、それからも母が細々と店を続けていたけど、その店も6年ほど前に廃業してしまいます。

 廃業してしまうとあのラーメンは2度と食べられません。そう思うと無性にその味が懐かしくなってくるのでありました。

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